片づけの中でも整理をしていると、「モノを通じた哲学」をしていると感じることがあります。
本記事では、整理と哲学がどう関係するのかについて、思うところを書いてみます。
整理と哲学 ~疑うこころ~
整理とは一般的には、
- モノを減らすこと
- 要らないモノを捨てること
と言われています。ですが、これは最終的な行動としての説明であって、その過程では思考が巡りまわっています。
- この服はもう着ないかな。どうだろう?
- これ高かったんだよな。メルカリでなんとか回収できないかな。
- そもそもなんで私はこんなものを買ってしまったんだろう。
これはつまり、過去の自分の行動や思考に疑問を持ったり疑ったり、振り返りながら自分自身と対話しているのです。
一方で哲学とは、世に出回っている当たり前や常識とされていることを、いったん立ち止まって疑い、自身で再定義していくことと考えています。
- 人間とはそもそもどんな存在なのか
- 良いことってどんなこと
- 働くことにどんな意味があるのだろう とか。
あえて疑ってみて改めて考えて自分だけの答えを出していくところに共通点があるようです。
整理と哲学 ~自身との対話~
整理は、それをしなくても生きていくことはできるでしょう。でも人様のところを見て疑問には思うことでしょう。
たとえば、なぜあの人の部屋はあんなに整然としていて、自分の部屋とこうも違うのだろうかという疑問。たいていの人は日々の生活で手一杯(という理由にして)で、こんな疑問を抱いても、追求することをあきらめてしまいます。
しかしこれを一生懸命追求していくと、そこにいろいろな発見が自然と見えてきます。
- あの人は整理する時間をとっているはずなのに、なんで自分より時間的余裕があるんだ?
- 自分はいつもソワソワしているのに、あの人はなんでそんなに(精神的に)ゆったりとできるんだ?
- もしかして部屋が綺麗な方が、人生楽しい? とか。
このように、整理を通して様々な問いを持つことで、多くの発見を自分の下に集めることができます。この発見は自分の内側と対話することで生まれたものです。
自分で発見したことですから、なんとか解決したいと思うのが人間の性。 疑問の答えは簡単には見つからないこともあるでしょうが、少なくとも考える行為を続けることによって、新たな自分が発見でき、成長できるのです。
一方で哲学も、これを学ばなくても、個人として生きていくのに不都合はありません。
しかし哲学を学ぶと、人によって同じことでもさまざまな捉え方があることがよくわかります。すると、世のものごとに対する浅い断定ができなくなり、健全な疑いを持つ習慣が身につきます。
哲学の効用は、このように、世間一般に言われていることを疑いなく受け入れるのではなく、いったん自分の下に集めて冷静に考える習慣がつくようになる所にあります。
疑問の答えは簡単には見つからないこともあるでしょうが、少なくとも考える行為を続けることによって、 簡単に他者に操られたり、時流に飲み込まれずに済むのです。
整理でも哲学でも、ある問題について深く徹底的に考えることをやらないでいると、自身の成長も見込めず、 誰かの言ったことに盲従して、ヘンな考え方に染まってしまうことにもなりかねません。
さいごに
無思考のまま呑気に生きるというのも、もう必要ないなあと思っているモノに囲まれて生きるというのも、一つの立派な生き方です。 ぶらりぶらりとなるがままに生きるのも楽しいのかもしれません。
しかしそれを続けていると、自分の人生を自分の足で歩いている実感も自信も持てなくなるかもしれません。
整理を「ただモノを減らすこと」と捉えるのではなく、自身の成長ツールとして捉え、どんどん挑戦して(哲学して)いきましょう。